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 結婚して20年も経ちますが、未だ持って相手の考え方が分からない場合があります。お互いの考え方を尊重していないのではないかと思うときがあって、同じ事で決まって喧嘩になります。真剣に考えないと熟年離婚のようになってしまうと思います。

子どもの二十歳の誕生日

 とうとう、長女が二十歳になりました。
 20年前の24日はとても良い天気でしたが、あれから20年も経ったのかと信じられないような心境です。
 春からは地元の信用金庫に就職が決まっているので、一応安心していますが、社会人としてちゃんとやれるのか心配です。
 誕生日のプレゼントにホームページに掲載している「チェックリスト」をプリントして渡しました。相手に配慮できる人間になってもらいたいと思います。


バレンタインデー
 今年も、バレンタインデーがやってくる。
 例によって身内からチョコレートをもらうわけだが、私は、贈り物をもらうと、それが食べ物であろうが無かろうが処分してしまう(食べてしまう)のがはばかられる。
 どうにも「もったいない」のである。
 一度、あまりにも美味しそうだったので、少しなめてからしまっておいたら、なめたところだけカビが生えていた。
 私の引き出しに去年もらったチョコレートが包装したまま転がっているのを見て、「今年は食べなかったらやらない」とおたっしがでた。娘からもらったものは平気で食べれるのに人間の感情とは不思議なものである。
 その感情もある時期をすぎるとすっと引いてしまう。
 いわゆるその物に対しての「区切り」とか「けじめ」とかいう時期をすぎたのだろうと思う。
 屋根裏部屋には化石化した懐かしいチョコレートがいくつか転がっている。
 食べたとごまかして、今年もしまっておくか・・。

ブランド指向の息子
 ブランド指向と言っても、別に「エルメス」や「グッチ」のことを言っているわけではないが、「機能」よりも「見た目」にこだわる息子に困っている。
 携帯電話が欲しいというので理由を聞けば
 (1)「みんな持っているから」と言う。
 家にある携帯を使っていいよと言うと
 (2)「家の携帯は型が古い」と言う。
 結論的には、「みんなに自慢できるような最新型」で「自分専用で」「みんなと同じように」というのが本音らしい。
 そもそも論の「電話をかける必要があるから」と言う理由はどこにもない。
 最近はITの世の中なので、せめてIモードでも使いこなせれば、それでも良いかな?と思って聞いてみるが、Iモードは使わないので、通話料などは払ってくれと言う。
 息子にとって携帯電話は「見せびらかしの自己満足のアイテム」でしかないようだ。
 高校に合格したらパソコンでも買ってやろうかと思っていたがこれについても興味を示さない。
 息子の言うとおりにした方がいいのか、必要に迫られるまで待つ方が良いのか、いっそ、全て本人が払うのであればという条件を出して許可しようかとも思ったりする。
 困った困った。使わないものを買って与えるだけの財力はない。


考えてから話せ!

 相手の言葉に対して、考えずに反応する人が多い。
 「ちゃんと考えてから話せ!」と注意される人は、何を考えれば良いのかわかっていないようだ。
 もちろん「言葉の使い方」「用語の適切さ」「尊敬・謙譲・丁寧などの運用法」などを瞬時に組み立てて、話さなければいけない。この点では「通訳」というのは難しい。
 話のポイントが合っているかどうかなどは初歩的な、基礎的なことであって、これがずれているトンチンカンな受け答えは論外である。
 ディベートを誤解している人は、「自分の言い前」ばかり考えているので、相手が何を言おうとしているのかを把握できていない場合が多い。私がよく言う「聞き耳を持たない人」である。
 しかしながら、こういう基礎的な視点の他に私が本当に考えて欲しいのは「自分の発言によって会話が楽しくなるか、不快になるか?」「会話が続くか?」ということである。
 相手の発言の揚げ足をとるのではなくて、すてきな会話を楽しみたいものだ。


ホワイトデー

 ホワイトデーのお返しを買って帰ったら、渡す前に従兄弟の子どもたちからお礼の電話がかかってきた。
 ちょうどカミさんが渡しに出向いたところだったので、えらく早く従兄弟のアパートに着いたなあと思っていたら、私が買ってくるのより早く、あらかじめカミさんが買って子どもたちに渡しておいたのだそうだ。
 私が買ってきた分も合わせて貰えるので子どもたちには良かったかも知れないが、なんとなくとんちんかんだ。
 確かに今までお返しをカミさんに買ってきてもらったりしていたし、時には手作りのクッキーを作ってもらったりしていたので、カミさんの方も今年はどうするのだろうと心配して、自分で買ってきたのだそうだ。お礼をカミさんまかせにする私も悪いが、相談もしないカミさんも悪い。
 
この前は、私がちゃんと剪定した植木を「相談なく」見てくれだけで切り刻んでいるものだから、芽が出るところまで切り取って、もう取り返しがつかない。植木には可哀想なことをした。
 昨日は昨日で、私が一つしか持たない長袖を、「相談なく」勝手に捨てている。 これで、魚釣りの時に着る汚れても良い服が無くなった。
 自分勝手に判断して、それが正しいと思って、勝手に突き進むものだから、衝突しなくていいところで喧嘩になってしまう。
 ひとこと、「こんなふうにしたい」と言ってくれればいいのに・・。
 
会話のない夫婦はすれ違いが多いものだ。


思いが伝わらない。

 仕事からの帰りに、学校帰りの息子と会った。傘をさして自転車に乗った友達と一緒だったようだ。友達だったようだというのは、挨拶の一つも無かったからだ。それに、自分の父親を紹介するのも嫌いらしい。制服の裾はズボンから飛び出して、そこら辺のチンピラと変わらない。
 職場ではさっきまで、バリアフリーについて調べに来ていた高校生もいた。こんな細かいことで評価に差がつくのだということを分かって欲しい。
 道々、いろいろなことを話しながら帰ろうと思っていると、雨に濡れて歩くのが嫌なようで、迎えの車を呼ぶという。こんな小降りの雨の日に迎えを呼ぶのも馬鹿だが、それを否定しないとすれば親も馬鹿である。甘やかすだけが親ではない。「たいした雨も降っていないのに歩いて帰ってこい!」と言って欲しい。
 一応、「ちゃんと歩いて帰れ!」と言い捨てて、一人さっさと歩いて帰ったが、気持ちが伝わらないことばっかりである。職場でもそういう時があるし、家庭でもここ2年ずーっとそうである。息子も理解しようとしない。
 彼らのわがままを許すために、また、彼らを楽にするために私の人生はあり、こんなに疲れているのだと思う。仕方が無いことなのかなあ????


「ながら族」

 「ながら族」という言葉がある。
 何と何の組み合わせがあるのか?、そして、それはなぜなのか?
 効果があるのか?、はてまた、ないのか?
 結局、人間の五感や運動能力のことだから、おのずから組み合わせは決まってくるし、やろうとしても不可能なこともある。
 聖徳太子は7人の話を一度に聞いたそうだが、これも一種の「ながら族」であろう。
 「ラジオを聞きながら何かをする。」「食事をしながらテレビを見る。」「物を食べながら話をする。」「寝っ転がりながら本を読む。」etc.
 私もよく「ラジオを聞きながら風呂に入る。」そのために、防水のお風呂ラジオを購入した。
 それに「食事をしながらニュースを見る。」、朝からは、「髭を剃りながらニュースを見る。」時が多い。
 好き好んでしているわけではないが、どれも時間がないことが原因である。もちろん、風呂で音楽を聴くとリラックスできる効果もあるが、湯船に使っているときにちょうど音楽がかかっていればいいが、タイミングが難しい。
 「寝っ転がりながら本を読む。」というのは、本当に「ながら行為」だろうか?
 私には「本を読むことに専念している。」「読むことだけをしている。」ように思える。
 「聞く」ことと、ほかのことを組み合わせるのはやさしいが、「見る」ことと何かを組み合わせるのは難しい。「食べること」とか「髭をそること」などが関の山だろう。「耳掃除」をすることなどは出来るかもしれない。
 なぜ「ながら」をしているのかを理解してもらいたいと思う。時間が無いのである。
 逆に、時間は限りがあるのだから有効に使ってもらいたい。
 もっと他にすることが、いや、しなければならないことがあるのではないか? せめて、「ながら」にならないものか? 「ながら族」は必ずしも悪いことではないと思う。


なにから削るか?

 時間は有限で24時間しかない。有効に使うためには「ながら族」も仕方がない場合がある。
 同じように、体力も有限で、体力の減と比例するように眠る(休む)時間が多くなる。
 最近、仕事は忙しいし、体力は無くなっていることから、今までのような、ましてや、若い頃のような時間配分ではやりくりがつかなくなった。
 仕事は生活の糧だからこれを削るわけにはいかない。しかも、45歳にもなれば、責任もでてくるし、年休は権利としてあるといいながら、また、毎週水曜日はノー残業デーといいながらも、休めないことが多い。
 当然、何かを削らなければやっていけないわけだが、さて、何を削るかが意見の分かれるところである。
 「遊んでないで仕事(勉強)をやれ!」とか「休んでないで仕事をやれ!」とか言われることから考えれば、「遊び」や「休息」の類から切りつめていくのが筋ではないだろうか。
 私の場合、「ピアノ」「釣り」「少林寺」の順番に削ってきたが、「家族サービス」はどんな区分に入るのだろうか?
 生活の糧であるはずの「仕事」にしても、「真面目にやる」「一生懸命にやる」「程々にやる」というように「レベル」の違い、いわゆる「力」の入れ方の違いがあると思う。
 最近、世の中では「程々に仕事をして」「権利である休暇や休息を十分にとって」「遊びや趣味を一生懸命」にやる人が多いようだ。
 どうも納得はいかないが、「一生懸命に仕事をやれない」ような体力的な限界が近づきつつある気がする。

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